2006年11月21日

四大女王最後の1人―ナイオ・マーシュにとりかかる

 ナイオ・マーシュ『アレン警部登場』、『ヴィンテージ・マーダー』を読んでみた。(書籍の詳しいデータは画像をクリック)
 アレン警部登場 ヴィンテージ・マーダー
 クリスティー、セイヤーズ、アリンガムと並ぶ、「黄金期の四大ミステリ女王」、最後の1人に遂にタッチ。
 表紙を見て知ったのだが、ファーストネームはNgaioという不思議な綴り。それもそのはず、ニュージーランドの裕福な家に生まれ、当人はデビュー前の2年間!!しかイギリスに住んだことはないそうだ。それなのに推理作家としては作品の舞台はイギリスなのは何故かというと、本人の希望は勿論だが、当時としてはやはりその方が売れたのだそうだ。
 先に『ヴィンテージ・マーダー』からいくと、これは別の事件の後大手術を受けたアレン警部が、ニュージーランドでの休暇で出くわした事件。いわば作者の「里帰り話」、かつ、旅回りの演劇一座で起こる殺人なので、推理作品よりも文才を傾注した演劇の世界を舞台にした、正にお得意の話。しかも、文中には、「植民地に住むイギリス人は、マオリ語の花の名前がきれいだのと、子供のファーストネームや洗礼名にする」とあり、作者の「ナイオ」という名前も、マオリ語の花の名前だそうだ。
 この作品には、マオリの上流階級に生まれてイギリスで教育を受けた医者が登場する(現地に住んでた割には結構差別的な描写な気もするけどなあ)。その他、正に自分の故郷なので、元々の優れた人物描写に加えて風景描写も興味深い。処女作に比べると大分展開もすっきりしている。ただどこが『ヴィンテージ』なのかイマイチよくわからなかった(原題もVintage Murderである)。
 脱線するが、マオリの王女でイギリスで教育を受け…というと、ソプラノの名花キリ・テ・カナワ。名前からも顔立ちからしてもそうとわかる。60〜70年代が全盛期か。ベーム指揮、ポネル演出の傑作オペラ映画「フィガロの結婚」の伯爵夫人などが有名。間もなく、「最後の日本ツアー」と銘打った公演も始まるということで思い出した。
 さて、処女作に戻り、ロデリック・アレン警部。
 「警官らしからぬ」とあらすじ紹介には書かれているが、この処女作だけでは、残念ながらどのへんが”らしからぬ”のか、はっきりとはしない。そもそも邦訳数が少なく、今出ている全部を読んでも、彼の全貌はわからないのである(おまけに、『ヴィンテージ』の前日譚『殺人鬼登場』は邦訳はあるが図書館にないので読めないし!)。このへんはクリスティー以外の3人の”女王”にも同じことが言えるが。
 処女作で明らかになっているのは、背が高く足が長く、鋭いけど人当たりがよくいつも冷静、「オックスフォードで優秀な成績をおさめた」ということ、関係者をすぐに執事に雇えるほどの財力と家がある、ということぐらい。つまりは、他のエキセントリックな探偵に比べれば、まだまだ警官らしからぬなどとは言えない(警官があんまり崩れちゃってる、後のアメリカの、ハードボイルドや、やたら変な探偵の私立探偵ものも困るけど)。巻末解説によれば、立派な家柄の出だそうだ。これは、アリンガムの創出したアルバート・キャンピオンが実は貴族の出であるのと似ている。セイヤーズの探偵、ウィムジイ卿も正に貴族であり、オックスフォード大卒の美形(「作者が探偵に恋しすぎた」と揶揄されるほどで、実際、彼が結婚するとその後は1冊でシリーズが終了した)。ついでにいうと、怪盗ラッフルズも「貴族泥棒」である。探偵に身分が要求されるというのも、ある意味いい時代だった。逆に言えば、あの当時、クリスティーのポワロなんかの方がむしろ例外だったのだろう。当時の探偵とはイヤミなぐらい正反対に、小柄!外国人!(ヘレン・マクロイのベイジル・ウォリングはハーフだがやはり長身で学者である)貧しい生まれ!性格が少しヘン!(作者自身が彼を書きにくく、とうとうミス・マープルとは最後の扱いまで違ったのも、結局は富裕層出身の作者自身に合わなかったせいか?)。
 『ヴィンテージ』の作中人物によれば(もうこの作品の頃には、遠くニュージーランドにまでアレンの名声は伝わっていて、現地警察にも下にも置かぬ扱いを受ける)、「イギリス貴族みたい」で、立派な著書もある。いつまでも独身。美しい女性には気持ちが動かされはするが、やっぱり冷静。
 『アレン警部登場』は、ちょっと整理されてないところがあってバタバタはしているが、田舎のお屋敷で行なわれた毎年恒例の「殺人ゲーム」で実際の殺人が…というオーソドックスなお話で、そこそこロジックもしっかりしている。動機もまずまず。あの時代の女流の例に漏れず、ロシアのスパイ組織だの何だのの描写はえらくマンガチックだけどそれはしょうがないのだろう(クリスティーの『秘密機関』『NかMか』とか、ノン・シリーズのスパイ物なんてあーた(笑))。それもある意味、「味付け」に使う分には間違ってよーが大目に見てもらえた、という、いい時代だ。言い換えれば当時の大衆の知識だってこんなもんで、外人やスパイを恐れる割には知らなかったっていうこと。
 ちなみに作者は元々は演劇畑の人で、女優として出演したり、脚本、演出を手がけ、演劇界への多大な貢献で「デイム」の称号を授与されたそうだ。となると、ドイルもボーア戦争擁護活動のお蔭で「ナイト」を授与されたので(よく勘違いされているが、創作活動のせいでは全くない)、純粋に推理作家としての功績でデイムになったのはクリスティーだけということか。
 他の作品も、ある限りは読んでみるつもり。今後も論創社ある限り新刊の可能性は期待できる。ほんとに頑張ってんねー、論創海外ミステリ。
posted by 高野正宗 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月13日

これぞ演出。〜NPOみんなのオペラ「魔笛」(おでかけ日記)

 日曜日に見てきました。非常によくて、うまくまとめられないのですが、忘れないうちに。
 この「NPOみんなのオペラ」については、クリックしてリンク先をご覧下さい。
 今回のチケットは7,000円(公開ゲネプロだと3,000円!)。絶対値として高いか安いかはともかく、現状で、10,000円を切るオペラなんて滅多にありません。しかも大好きな「魔笛」です。この演目がこのホールにかかるのを待ってました。知って即電話予約でした。
 クラシックといえば呼ぶ側の無能力をいいことに海外のプロモーターに吹っかけられてチケット代が高い現状を考えると、日本人によって少しでも良質(台本の改訂、わかりやすい演出なども含めて)のオペラを安価に提供していこうという試みは、まだ発展途上とはいえ期待が持てます。芸術をいつになったら「見せてやる」じゃなくなるのかと思ってますので、この団体がもっともっと有名になっても、「チケット代を抑える」を最大の目標にして欲しいと願うばかりです。
 (特にクラシックを)安くてもあまり質を落とさずに楽しむ一番の方法は、「河岸を変える」ことです。ちょっと目先をずらせば、そこそこいい団体は結構あります。また、ショバ代が安ければ当然チケットも安いわけですから、そこそこの公会堂にそこそこのものがかかってくれて、気張らずに見られるのは有難いことです。(しかも今回の「ティアラこうとう」(江東区公会堂)は割と有名で、「TVに出てる人」も結構来ます)
 「高かったのに全然わかんなかった」が一番悲惨なパターンですから、特にこの不景気かついつまで経っても舐められっ放しの日本クラシック興行界に対しては、我々の側で智恵を磨くしかありません。
 今回の7,000円の内訳は、1,000円(団体の努力に期待料)、1,300円(演出の親切設計に感動料)、400円(ホールが手頃で見やすくてラッキー料)、300円(交通費がかからなくて嬉しい料)、4,000円(歌手の皆さんに結構偉いぞ料)です。プログラムが体裁の割には1,000円というのはちょっと高いですが(もっといい作りで1,000円切ってるのもあるぞ…)、中身もそこそこ充実してますし、こういう「付属品」を除いた本体(チケット)を安くするための「ご祝儀」と考えておきましょう。

 さて、内容ですが、
 ★「無理のない前日譚を設定し、思い切った解釈も含め、従来にない演出によって、それ自体で完結し疑問なく楽しめるおとぎ話・寓話として完成させたのは見事」
の一言に尽きます。
 「魔笛」というのは、「モーツァルトの音楽でもっている」ことで有名なほど、上演台本のまんま上演したらわけのわかんない話です。
 いつのどこともわからない世界(一応主人公が「日本の王子」だったり場所が「エジプト風」だったりしますが、当時の見世物的芝居なのでそのへんは適当でよろしい)。
 途中でいい側と悪い側は入れ替わるし、肝心の魔法の笛と魔法の鈴は誰のもので何のためにあるのかは結局わからないままだし、対立する二集団=夜の女王の一派とザラストロ(高徳の僧、というか要は宗教集団の長?)一派の争いの原因も不明。
 出てきた問題のほとんどが全く解決されないままにとりあえずハッピーエンド。
 (そもそも、オペラそのものが、ご存じの通り、話は突飛だわ大抵は主人公かヒロインは死ぬわ、ありえない話ばっかりなんですが、「魔笛」の場合は、そういうツッコミ的な部分を除いて、単純に、わかりません!)
 いくらこの作品が好きでも、全く知らない人に説明しようとすると不可能、という困ったオペラです(笑)
 その上、はっきりいって、海外・国内のどんな演出でも、こうした、見終わって残る疑問点を、上演している時間内に解決しようという試みは皆無です。語られていることの色々な部分や、含まれた要素(例えばフリーメーソンの思想や儀式、音楽など)を演出家が自分流に解釈し表現していくのが主流であって、最終的には観客に委ねるしかないのが現状。 
 しかーし!
 個人的には、この、「あとは自分で考えて」が大嫌いでありまして(笑)、特にフランスの映画とか(笑)、そんな「ゲージュツ」「アート」なら要らんわい、なのです。
 特に最近は、「観客に考えさせる」のではなく「実は作った側もわかってない」んじゃないか、と思われる作り手も多いことには非常に不愉快であります。プロならば、「作った側もわかってない」は一番やってはいけないことです。わかってて伝わらないのと、初めから努力を放棄しているのは違います。
 ですので、作るからには、見せている間にちゃんと全ての要素にケリをつけてくれて、スッキリ帰れるものに出会うと大変に清清しいのです。たまには、作り手、見せ手の責任感を感じるものを楽しみたいのです。
 今回のタイトルが「これぞ演出。」なのは、上っ面のことだけではなく、ここまでやってこそ「監督」「演出」なのだな、と思わせてくれたからです。前述のように、自分流に理解し解釈し表現するだけでなく、更に一歩踏み出して、観客には充分舞台の上だけで完結し満足して帰ってもらう。これですがな。
 今回の「魔笛」は、ツウぶった人に言わせればいちいち説明が多すぎだの流れを殺ぐだの子供っぽいだのという意見もありそうですが、ギリギリの線で成功していると思います。
 初めてオペラを見る人にもおすすめです。 

 「魔笛」は「オペラ」といいつつも、ドイツ語であり、厳密には「歌芝居(ジングシュピール)」。イタリア語で、宮廷の委嘱を受けて作られ正規のオペラハウスで上演された…というものではなく、モーツァルトの旧友である興行主の依頼で、ストーリーも当時似通ったものも続出したファンタジー、大衆劇場で主に庶民を相手に人気を博したもの。企画・興行主で脚本、主演をつとめたシカネーダーとモーツァルトの交流史、当時の大衆芝居についてはプログラムにも割としっかり載っている通り。確かに当時は、オペラがある一方、当然イタリア語などわからないドイツの民衆は、ドイツ語で、当時の俗謡なども取り入れた歌入りで、面白おかしく、派手な仕掛けやスペクタクルで耳目を楽しませるお芝居を楽しんでいました。「魔笛」にも、冒頭では大蛇が登場し、三人の童子は飛行船に乗って登場などなど、見世物的要素はふんだんにあります。但し、音楽は相当にハイレベルで、いやに高尚な歌詞やメロディーから、大衆ウケしそうな俗謡っぽい歌まで幅広く、話がわからなくても充分に観客を圧倒するに足ります。(当時宮廷外でこれだけの歌が歌える初演メンバーだったというのもすごい。)
 そういう作品なので、「おちゃらけちゃいかん!真面目にできるはずだ!」という作り方と、「いや、難しく考える必要はない、おもしろおかしけりゃいいんだ!」の両極端になる危険を常に孕んでいます。ヨーロッパの舞台でも、舞台デザインも衣裳もごくごく正統のファンタジーならまだよし、やったら難しく解釈したものもある一方、何かよくわかんない派手なだけのものもなくはない。そして、前述のように、どれも、わからない部分は解決する意志ゼロ。
 今回は、その中間というか、まさに親切設計、作り手が甘えない、おとぎ話だけどちゃんと疑問を残さない、いい出来でした。

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posted by 高野正宗 at 22:26| Comment(3) | TrackBack(0) | おでかけ日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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